雑記7・頭でっかちの独りよがり

頭ではわかっていても体が言うことを聞いてくれない。

能書きはいい。行動に移す。これがどれだけ自分の世界を面白くするのだろう。

塞翁が馬という言葉がある。幸福や不幸は予測のしようがないことである。この言葉の響きはもちろん、意味もとても好きで中国からの言葉だそうだ。二、三年前の漢文の授業で習った言葉が今でもこうして鮮明に覚えている。メモなんて取らなくとも大事なことは心に残っている。人によるが漢文は習っても受験に使わないからだとかでぞんざいにしていた人もいたがナンセンスだ。米国にもSTEM(Science Technology Engineering Mathematics)だけやってればなんていいなんて輩もいるがまるで家畜みたいだ。

なんでもいい、継続していかねば。

 

雑記6・寝ても覚めても

日本は特殊な国柄だと思う。日本語しか話せなくても生きていけるし、日本固有の文化は美しいし、はっきりした四季があるし、日本精神は他の国にはないものを持っていると思う。

はてなブログを徘徊しているとほぼ毎回トップに躍り出るのが電通問題と会社関連だ。人生経験浅い学生である僕は会社について深く考えない。それとも学生であろうがなかろうが世の中について、会社について、積極的にリサーチした方がいいのだろうか。いわゆる意識高い人たちは生活レベルも自ずと高くなっていき、充実した人生を送っているはずだ。朝起きてコーヒーを飲みながらエコノミスト日経新聞とか読んでいるのだろうか。

広告業界は明るいが暗くもある。広告ってなんだよあんなものに命をかけるやつらってどうかしているんじゃないかなんて二、三年前の自分だったら思うだろうが、公共の場に設置でき大衆の目に触れさせる、それが広告である。紙一枚でどれだけの人が惹きつけられよう。グーグル先生に広告という単語だけ調べたら、言葉の意味から学術論文まで出てきてしまった。

自分は難しい言葉を使って優越に浸っているかもしれない。使い方さえ間違えっているかもしれない。なんて浅い人間なのだろう。言葉の難しさとかどうであれ相手も理解してなおかつ心の通った率直なものでないと言葉はどんどん軽くなってゆく。

自分は言葉を知らないで知識が虫食いになっていても、全然不快な気持ちにならなかったが、最近になってやっとその感情が芽生えてきた。今までコーヒーが好きで毎日飲んでいたがエスプレッソがなんのことであるか知らなかったのだ。コーヒーには様々な抽出方法があり深煎りで微細に挽いたコーヒ豆の充填したフィルターに沸騰水を加圧状態で濾す(引用:ウィキペディア)方法をエスプレッソといったらしい。

半導体がここ最近熱いらしい。半導体という単語は聞くけど実際のところなんのことなのかはさっぱりわからない。グーグル先生によると”導体と絶縁体の中間の電気伝導率をもつ物質。低温では電流をほとんど通さないが、高温になるにつれて導体として働く。トランジスタ集積回路などに広く利用される。例、シリコン・ゲルマニウム。”だそうだ。なるほどわからん。でも勉強してみるので来週までには多少の知識は蓄えておく。

たまに自分が何者なのかわからなくなってくる。憧れの人を真似している自分が本当の自分なのか、友達とバカなことをして何にも考えていない時の素が自分なのかそれら全てひっくるめたものが自分なのか。。。本当は自分なんてものはないんじゃないか。

ただ一般家庭に育ち、平凡な環境に育ち、みんな右に習えで育つ。それは確かに似たものを生み出すだろう。でも幼少時に受けた痛みやちょっとした違いが後になってバタフライ効果となって世界を面白くする。

 もし自分に予知夢を見れる能力があったとしたら、寝るのが恐ろしくなってしまうだろう。魂がストンと落ちて、精神は肉体を離れ未来の情景を見にゆくのだろう。

 

繊細で泣き虫

今週のお題「私の癒やし」

私の癒しは泣く行為である。毎週末やっていることだが”泣くこと”だ。ただ泣く。泣くという行為が好きだ。その涙とともに日々の疲れや嫌なことも流している。そんなことが好きだなんて情緒不安定なんじゃないかと思われるかもしれないが、情緒は安定する。むしろ泣かない週は調子が良くない。泣くことが私にとっての数ある中の一つの癒しなのだ。何処かの国のある科学者は『泣く行為によってカタルシスを誘発させる』なんて言いそうだ。泣き虫だって言われても構わない。泣き虫がこの世界から消えてしまったら、世界はとてもつまらない世界になってしまうかもしれない。泣くにはそれなりの物語や出来事がなくてはならない。泣き虫は繊細な方であると思うからそいつらが世界から消えてしまったのなら、世界から繊細さが失われてしまうかもしれない。繊細でありたい。私の癒しは泣く行為で繊細でありたいと願うことなのかもしれない。

雑記5・肚は見せない

最近毎日の繰り返し繰り返しなので,少しでも,この慣れきった,この退屈な日々を殺すために,なにか新しいことを始めようと思う.

いつも通りのコンディションを維持するのはとても難しい.日によってやる気も違ってくる.毎日過ぎ行く日々を淡々とこなしていく人たちは素直に尊敬する.やる気が全くでない日なんてなにもやらなくていいなんて言われたけれど,帰って自分が嫌になってくる.

やる気がない日は無理矢理にでも起きてみようきっとこうして行動していた方がかえってやる気が出てくるから.

 

『重さん、良薬ほど毒性があるよ。英雄というのは国家の無病息災な時には無用の毒物だが,天下危機の時にはなくてはならぬ妙薬だ。人間の毒性ばかりをこせこせと見るのは小人のすることで、大人はすべからく相手の効能の面を見ぬかねばならん』(竜馬がゆく・第3巻)

考え事をするけど考えるにも考える材料というものが頭に入っていないので意味がない.知識量を増やしたい.

言葉をよく知らないで使っていることがままある.

習慣化するという言葉が嫌いだ.なぜ習慣化しなければならないのか.それは日々のタスクを消化していかなければいけないのであってそんなことをほったらかしにしてしまっている僕はいつまでも成長できない.

人間ドックのドックはドクターか犬からきた言葉だと本気で信じていたが違うらしい.船渠の英語名dockからきているらしくまた一つ学んだ.

雑記4・パンと見世物

これが4回目ということは,早1ヶ月経ったということになる.時間の流れがとてつもなく早い.早くも10月になり,2017年の終わりが見えてきた.テレビで見た’終末論’や’時代の転換期’などの噂はどうなったのだろう.人類は破滅を,退屈な日々を心の中で願っているのかもしれない.

”健全な魂は健全な肉体に宿る”ということが頭の片隅に残っているが,いざ調べて見ると古代ローマの詩人デキムス・ユニウス・ユウェリナス(Decimus Junius Juvenalis)の言葉で,正しくは”健全なる精神は健全なる身体に宿る”だったようだ.やはり自分の中では理解しているつもりでも,”つもり”になっているだけであって深い理解をしていないんだろう.

それはさておき”健全なる精神は健全なる身体に宿る”とは世間一般でもよく言われてることなので,週に二回はワークアウトするように心がけている.ランニングしているときはタイマーとにらめっこしているが,10分はこんなに長いのかと痛感した.苦しんでいるときの方が長く感じるのは大いに理解できるが,いざ直面するとどうしてもなれないのもがある.

健全な精神と身体は心に留めて,僕は計画したスケジュールを計画どうりにこなすが嫌いな達らしい.そもそも計画なんてしないし,頑張っていれば結果なんてついてくると思ったが ,どうやらただの出不精なだけだということが最近身に沁みてわかる.計画的にこの一週間過ごしてみよう.全てプランニングなんてできっこないから柔軟性をもたせておく.

長編時代小説『竜馬がゆく』(著:司馬遼太郎)を読み直しているのだけれど,やはり学ぶことがまだまだ沢山ある.その小説第二巻の一節にある,「その生涯が一編の詩になるものを英雄という」というのがとても鮮烈で,僕はそんな生涯を送りたいと思う.人生は無駄の連続なのだろうか.時間は無駄にしてはいけない.今自分のしていることがたとえ無駄になっても,何かしら得られるかもしれないから,後になってわかるかもしれないからもう一つ続けてみる.

語り継がれ,歴史を通過していくうちにその言葉の中の原石は磨かれ古典となっていく.いわば人類の宝と言われるものは適切に保存され,保管され,次の世代へと慎重に継がなければいけない.

 読書狂でありたいが果たして読んできた本が自分の血肉となっているか定かではない.どうすれば実りある読書ができるのだろう.もしくは,読書に意味を見出すのがそもそもの間違いなのか.

一度書いた文章を翌日読み返して見るとよく間違えていると思う.なぜこれを書いたんだっけとか思っている自分がいる.推敲は大切だ.

 はてなを徘徊していたらいい記事に出会った.僕の好きな作家の村上春樹も悩みは若者の特権と言ってくれれば少し楽な気持ちになったような気がする.明日も頑張ろう.

僕が若かった頃の「弱さ」について - グローバル経営の極北

大人になるにつれて強くなるというよりも慣れていくのかもしれない.もしくは,そんなことに感傷的になるほどの繊細さが失われていくのかもしれない.

2017/10/09 12:25

 

 

雑記3・怠惰

これを書き終えてる頃には自分のやるべきことが全て終わっていると信じたい.

 怠惰だと思う.やるべきことが残っているのにのっちのけで映画を二本も見てしまい,よくわからぬゲームで時間を潰してしまった.時間が貨幣だったら...そんな映画を見た.タイムという映画で,人の寿命がそのまま生きられる時間なのはもちろん,その寿命が実際のお金として使えるのだ.コンセプトが素晴らしかった.

 

昔はこんな便利なサービス達はなかっただろうから昔の人は本当にすごいと思う.いつか将来自分も便利な人の人生を支える何か特別なツールを作りたいと思う.

僕の目標とする人の一人に坂本龍馬がいる.大元の目標とする人だったらしいから調べて見ると,なるほど,これはすごい人だと思って僕の目標とする人にもなった.目標がないといけない.そんな風に若いうちは悩んで生きていくのだろうか.耐えられない人はどうするのだろう?考える事をやめるか自ら命を絶ってしまうのか.

 

司馬遼太郎著作の『竜馬がゆく』は二周回くらいしている,僕の人生に影響を与えてくれてる本だけど,そこでの竜馬は鈍臭いところもあるがかっこいい.僕もあんな生き方がしたいと思う.

 

一節に ”こいつは人物だな” とあった.これがひどく鮮明に頭の中に残っていてどういう事だろう,どうすれば人物になれるのだろうとよく考える.人物になりたい.感覚的にはわかるけどどういう意味なんだろう.ひととして当たり前のことを当たり前のようにするのはとても難しいと思う.といってもその基準が人によっては変わってくるし,どの時点で自分は人物だと確信できるのだろう.もしくは自分では断定できないのかもしれない.

 

 

雑記2・庶幾

みんなはいつも平気な顔をして日常を過ごしている.どんなに辛いことがあっても平気な顔して作り笑いして心ではないてる.絶対私のことなんて誰もわかってくれない,見てもくれない.でもいつかは.誰か一人でも味方がいるはずだから.

めくらになっても手足が動かなくなってもきっとどこかで切に願う.

 

先延ばしは嫌いだけど脳の方が絶対なので,それにどうしてもしたがってしまう.ただくせをつけていきさえすれば,いわゆる習慣というものだけれど,そいつさえ味方につけてしまえば怖いものはないはずだ.来週はテストがせまっている.よくわからない記号を覚えて何になるのだろう.ただ一つ言えるのは,学びというものは−それが楽しいかどうかは別として−学び終わった後に理解が進むものだと思う.だから意味など考えずにやってもいいのかもしれない.もちろん,目標はあった方がいい.目標はないよりはマシだと思う.自分の生きる理由と動機を,そして自分を少しだけつよくしてくれる.

雨の日は来ない.雨が好きな僕は残念だと思う.遠い島国は一週間に一度くらいのペースで雨は降っているのだろう.今日はどうも調子が悪い.明日にしよう.